東北のマップ

東北の絶景スポット
大間崎 - 本州最北端の地
本州最北端の地であり、まぐろの町。何もいう事はありません。
◆本州最北端の碑





◆大間のマグロ



◆尻屋埼
大間崎もいいですが、尻屋埼も馬が放牧されていて、牧歌的な雰囲気でとてもいいです。馬が放牧されているのはここ尻屋埼と宮崎県の都井岬が有名。どちらかと言えば、尻屋埼の馬のほうが人間を気にせず近づいてくるような。。(画像は2012年に行った時のもの)





竜泊ライン – 国宝級のワインディングロード
竜飛崎から道の駅「こどまり」までの絶景ロード。天気がいいと、最高のドライブができるので、海と運転が好きな人には絶対のおすすめ。
適度なカーブとアップダウン。海岸近くを走ったり、丘陵の上から青い海を眺めたり。
ここはスピードを少し上げて運転を楽しみたい。途中、「眺瞰台」という展望台もある。










北山崎 – 圧巻! 200mの断崖美!
僕は断崖が好きだ。日本全国に断崖絶壁はあるが、北山崎の第一展望台からの光景は、その中でも群を抜く美しさ。めちゃくちゃダイナミックで、かつ優雅な気品を感じる。
第1展望台だけでもすごいが、第1展望台から続く階段を736段降りると、200メートル下の海面際に降りることができる。そこから見上げる光景も他にはない絶景だとか。というのも軟弱な私はまだ降りたことがない。(行きはまだよいが、帰りは大変?)
この次に行くときは、下まで降りてみよかな。



下の画像は、2012年に行ったとき。霧で何も見えなかった。まあ、こんな時もありますよ。。
その次に行ったときは、きれいに晴れていたのだけど、なぜか写真が残っていない。。


南三陸 – 美しさの中に震災の爪痕
石巻から気仙沼、大船渡、陸前高田、釜石、宮古へと続く、南三陸のリアス式の海岸。しかし、震災の傷跡がいたるところで残る。
震災の資料館は多いので、訪ねてみたい。
◆ 陸前高田
道の駅高田松原に行くと、東日本大震災 津波伝承館があり、少し歩くと震災で壊れたユースホステルと奇跡一本松がある。下の画像を見ると高台に民家が多く建っているのが見える。



震災前、ここに7万本の松林があった。私も震災前、訪れたことがある。きれいな松原だった。しかし、東日本大震災の津波により1本を残して全て流出してしまった。その1本は奇跡の一本松として町のシンボルとなった。何という生命力だろうか?
が、海水による根の腐食で再生不可能と判断され保護を断念し伐採された。現在見ている松は、切られたのち防腐処理等を施して元の場所に復元されたものらしい(復興庁のHPにより)。
そして、下の画像の通り、令和3年5月、松の植樹が完了している。
新たに植樹された4万本のうち600本は、震災前年にクリスマスの飾り物用に高田松原で拾い集めて保管されていた松ぼっくりの種から育てられた苗木が植えられたという。命のバトンが受け継がれているのだと思うと感動する。
いつか、もう一度、見てみたい。美しい松林の姿を。



◆碁石海岸
下の2つの画像は、どちらも景勝地「穴通磯」である。上が震災前の2005年のもので、下の画像が2024年のものだが、両者には大きな違いが2つある。それは何かお分かりになるだろうか?


正解は。。
一つは穴通磯の上にある松の本数。おそらく、津波で流されてしまったのだろう。という事は、残っている松の位置には津波がこなかったということなのだろうか?
そして、もう一つは、左上に見える港(大船渡)の入口にある防波堤(防潮堤)の大きさである。
鶴田町 鶴の舞橋 – 吉永小百合さんで一躍有名に
青森県鶴田町に富士見湖パークがある。湖のような大きな池があるのだが、もちろん、そこから富士山は見えない。冨士見というのは津軽富士と呼ばれる岩木山がきれいに見えるから。ただ、それは愛称で、正式には「廻堰大溜池(まわりぜきおおためいけ)」という。
ここのボランティアガイドに話を聞くと、この大溜池は、江戸時代前期、新田開墾の灌漑用水源として作られた人造湖という事だ。それを聞いて僕は驚いた。江戸時代にこの規模の堤防とは、物凄い土木技術ではないか?
でも、よく考えたら、羽柴秀吉が備中高松城を水攻めした時にも大規模な堤防を築いているから、そのような技術は行きわたっていたのかもしれない。
そして、1994年にこの「鶴の舞橋」が完成する。なんの為に、どのような経緯で作られたのかは僕は知らない。
ただ、当初はそれほど有名でなかったと思うが、いつだったか、吉永小百合さんが登場するJR東日本のCMで、この景色が取り上げられた。そして、一躍有名になったような記憶である。まあ、僕がそのCMを見て行きたい!って思っただけかもしれないが。
このCMのキャッチコピーは「知らなかったのに、ずっと見たかった景色」
吉永小百合さん、素敵ですね。 ご参考 => こちらから



東北の酒蔵
会津若松 末廣酒造
いつ頃だったか、定かには覚えていないのだが、おそらく20年くらい前、私は青春18きっぷで東北のローカル線を廻っていた。郡山駅で接続時間が長かったので、地元の日本酒を飲もうと駅ビルにある居酒屋に入った。どの銘柄を飲むかしばらく思案していたが、隣の紳士が一人で酒を飲んでいる。御一人で楽しまれているので少し気が引けたが、「何の銘柄を飲まれているのですか?」と思い切って声をかけた。すると「末廣」だという。それまで聞いたことのない銘柄だった。「東京では、会津の酒と言えば榮川が出回っているでしょうが、自分はこっちのほうが好きです。あまり大量には生産していないので地産地消なんですよ」と教えてくれた。そして、飲んでみた。それ以降、私は末廣推しになった。
酒蔵は、会津若松市のど真ん中にある。ここでは酒蔵見学もできる。


磐梯町 榮川酒造
磐梯山の麓、いかにも上質な地下水をくみ上げることができるだろうと思われる森の中に酒蔵はある。



会津坂下町 廣木酒造
首都圏ではめったに手に入らない飛露喜を作っている廣木酒造。しかし、ここでも飛露喜を買い求めることはできない。聞いてみると、月一回の販売日があって、その日しか買えない。しかも、その当日は朝から行列で、すぐに完売するそうだ。



喜多方市 大和川酒造
酒蔵の敷地内に「大和川酒蔵北方風土館」という資料館があって、その先に試飲コーナーがある。僕はクルマで酒蔵周りをするので試飲はしないが、その中で有料試飲があって「四方四里」という銘柄だった。これは「四方四里・身土不二」から名付けられたとか。つまり、酒米も水も地のものであるということ。
お店の方はこれがおすすめだと教えてくれた。同行していた友人Dが試飲し、過去飲んだお酒の中でも五本の指に入るという評価だったので購入した。宿で飲んでみたが、そりゃ、めちゃくちゃ旨い酒だった。確かに5本の指に入りそうなレベル。お値段は5,000円。自分用としては高いが、お値段以上かと。。
詳細は → こちらから

塩釜市 佐浦(浦霞)
あの浦霞を世に出している酒蔵・佐浦は、JR本塩釜駅から徒歩数分の場所にある。なので、ここに訪れるときはJRを利用することをお勧めする。なぜなら、ここには「コイン式きき酒用サーバー」があるからだ。300円で専用のお猪口とコイン3つを受け取り、1コインでいっぱいづつ試飲することができる。




この後は、ぜひ、塩釜の寿司屋で続きを行うのがおすすめ。塩釜は人口当たりの寿司屋の件数は日本一。おすすめのお店は「すし哲」さん。僕は、20年くらい前、仙台単身時代に時々来た。まだ、カウンターしかなく、こじんまりしたお店だった。だが、当時から人気店で、ある日、僕の周りが品のいいご夫婦ばかりだったが、会話してみるとみんな東京からの常連客。すし哲さんの寿司を食べに新幹線に乗ってくるとのことだった。その後、旅行ガイドに必ず取り上げられる名店となっている。
そして、2024年の夏、飲み仲間と一緒に久しぶりに入った。お店は、すっかり大きくなっていて、2階のお座敷に通された。美味しさは当時から変わらない。酒はもちろん浦霞。最高だった。



東北の歴史スポット
会津戦争の跡 – 詰め腹を切らされた会津藩
会津の悲劇は、どこから始まったのか? それは3代将軍家光の頃にさかのぼる。家光は、お江の子だが一人の同腹の弟がいた。忠長である。どうも家光はその弟のことが可愛かったのだろうが、忠長はその意に反して不祥事があり自害させられる。おそらく家光は悲しんだのだろう。家光には他に兄弟がいない。というのも2代将軍秀忠の正室お江が側室を認めなかったからなどと言われる。
しかし、実は秀忠は侍女に手をつけ、弟が1人いた。それは長く伏せられていて、お江の死後に家光にも知らされる。それが保科正之である。家光は非常に喜んだ。ふたりは信頼関係で結ばれ、そして正之は会津藩の藩祖となる。
正之は、その恩に報いるために「会津家訓十五箇条」の第一条に「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」と定めた。
時代は下って幕末。藩主は松平容保。幕府から京都守護職就任の要請をうける。藩内は猛反対。当たり前である。その時代にその職に就くことは火中の栗どころでない。着任したら大変なことになることは自明だった。だが、容保は反対を押し切ってその要請を受ける。それは、家訓第1条を守らないといけないからである。
京都についた容保は、本当によく業務を遂行していた。しかし、時代の波には逆らえず、大政奉還、鳥羽伏見、江戸城無血開城に至り、新政府の矛先が会津に向けられた。長州は会津に痛い目にあっている。その報復ともいえる。
言ってみれば、会津は徳川学級の中で学級委員のような超まじめな優等生。やんちゃな長州をもう一人の秀才の薩摩と手を合わせて抑えつけたけど、突然、薩摩はぼこぼこにされて傷だらけの長州と手を組み、会津に歯向かってきた。
会津征討軍に対して、東北列藩は同盟を結ぶが、最初に白河口での戦闘で幕が開ける。
◆白河口攻防戦
白河口の攻防戦は、数でまさる東北列藩側が圧倒的に優位だったが、官軍はゲリラ戦のような作戦だった。東北列藩は伏兵により指揮官が次々やられていく。結果、稲荷山を制圧した官軍がやがて白河城に入城する。東北列藩側は稀に見る惨敗を喫してしまった。ここが運命の分かれ道だった。






◆二本松城





◆母成峠から鶴ヶ城
白河口を攻略した官軍は二本松を落とし、会津盆地への関門であった母成峠を1日で突破し、怒涛の勢いで会津城下になだれ込む。もう勢いを止めることは不可能だった。
それでも鶴ヶ城の攻防は1か月に渡った。





◆斗南藩
会津戦争で敗れた会津藩士は、会津を追われ、下北半島に斗南藩として移住する。今のむつ市である。むつ市内には斗南藩の史跡が残っている。 詳細は → こちらから
人取橋の戦い -政宗、前半の最大のピンチ
大河ドラマで戦国時代が良く取り上げられる。しかし、ほとんどの場合、信長や秀吉が出てくるし、信玄や謙信も人気である。なので、関東から東海や甲信越、近畿を舞台とした戦国物語はよく知られている。
しかし、東北地方の話はずっと昔に「独眼竜正宗」があったのみで、あまり知られていないと言っていいのではないだろうか?
しかし、東北地方にも物凄く血なまぐさい悲劇の戦場が数多くある。いや、正確に言うと、ある武将が登場するまではそうでもなかった。当時の東北の戦国大名や国衆は血縁関係があったりして、領地争いは絶えなかったが、信長や信玄のように敵対勢力を徹底的に殺戮していくというようなことはなく、一歩手前で和睦してきた。
しかし、その暗黙のルールを破ったのが、若き日の伊達政宗である。
彼は家督を譲られた19歳の時、自分に従わなかった大内定綱を征伐するため福島県にあった小手森城を攻めた。そして、その城を一気に陥落させる。問題はそのあとである。このとき降伏して城内にいた武将や女子供など1000人あまりの全員殺したと言われている。世に言う「政宗の撫で斬り」である。
これに震撼したのは周りの武将たち。こんなめちゃくちゃする若者をのさばらせておいてはいけないとみなが思った。そこで、反政宗の連合軍が出来上がる。
血なまぐさい話は、次に宮森城に舞台を移す。
◆宮森城
まずは、その急先鋒であった二本松城主・畠山義継が伊達に和睦を申し入れる。政宗は二本松氏の所領のほとんどを取り上げるという極めて厳しい条件を突き付けるが、隠居の身であった政宗の父輝宗が条件を和らげる調停して和睦は成立する。義継は、そのお礼として当時宮森城にいた伊達輝宗を訪問する。そこで、酒宴があった。



◆粟ノ巣古戦場
宮森城での酒宴が終わり、輝宗は二本松に帰ろうとする畠山義継を玄関まで見送る。その玄関で義継は豹変して輝宗に刃を突きつけ、和睦に尽力した輝政を補足し、人質として二本松城まで連れ帰ろうとする。
小浜城にいた政宗は急報を受けて、急ぎ出陣し、阿武隈川ほとりの高田原という場所で、その一行に追いつく。
そこで、戦闘となって輝宗も義継も戦死する。
ドラマなどでは、輝宗が政宗に向かって「私はいいから一斉射撃しろ!」と叫ぶ。政宗は苦渋した挙句、父も一緒に義継勢に対して一斉射撃したように描かれる。そうだったかもしれない。だが、別の資料では、もはやこれまでと思った義継により刺殺されたとも記載されているらしい。いずれにせよ、ここで輝宗と義継はなくなった。



◆小浜城
政宗の本拠地は米沢城だったが、この時は大内定綱らを駆逐した後の小浜城に入っていた。若き伊達政宗が大暴れしていた時の本拠地である。この城、福井県の小浜城に似ていたから命名されたと言われている。



◆人取橋古戦場
伊達政宗は、その後、父の弔い合戦として二本松城を攻める。しかし、二本松を救援するために蘆名、佐竹などの有力武将などがここに集結し、反政宗の連合軍を形成する。
政宗軍7000に対して、連合軍はなんと30000の大軍勢となっていた。その両者が対決したのが、今の福島県本宮市の人取橋付近である。
圧倒的な兵力差だったが、政宗は逃げずに戦いを挑む(信長ならきっと何とかして逃げただろうと思う)。
が、初日はほとんど防戦一方で、政宗自身も傷を負い、相当やばかった。伊達側の有力武将は多く討ち取られ、伊達軍は政宗をどうやって逃がすか、それ一点に絞って防戦した。そして日没まで耐えて、そこでいったん戦闘は終わる。その夜は、伊達政宗の人生でも前半における最大の絶体絶命のピンチだった。
そして、政宗の命運もこれまでかと思われた翌日。なんと、連合軍は政宗の息の根を止めず、解散して撤退していく。佐竹が本国で反乱があり、戦線を脱出したので蘆名も本国に帰ったらしい。結果、伊達軍は命拾いしただけでなく、二本松も手に入れる。
その後、伊達政宗は蘆名を滅ぼし、東北一帯を手中に収めることになる。


弘前城 -天守の大移動
現存十二天守の一つ弘前城の天守が、石垣改修工事のため、そのまま移動し、今は本丸広場にある(2024年現在)。市民が力を合わせて移動させる様子がニュースにも流れていたので、ご存じの方も多いはず。
今の姿は、2025年いっぱいまでしか見られないかもしれない。
詳しくは => こちらから
◆本来の姿(2010年に撮影)



◆現在の姿(2021年に撮影。2025年いっぱいまで?)



東北のご当地ぐるめ
青森市 ホタテ料理
青森といえば、りんごやにんにくが頭に浮かぶが、ホタテの生産量もトップクラス。特に「貝焼き味噌」は美味しかった。

五所川原市 いがメンチ
いがメンチ(イカメンチ)、名前は聞いていたが、食したことはなかった。五所川原のスーパーの総菜コーナーに売っていたので食べてみた。
めちゃ旨いです。ビールのつまみに最高!
詳しくは → こちらから

遠野市 ジンギスカン
ジンギスカンと言えば、たいていの人は北海道を思い出すと思うが、遠野市もジンギスカンの町。僕も2回ほど食したが、臭みはほぼなく、めっちゃ美味。北海道のジンギスカンよりうまいかも?
ただ、クルマで行くとビールが飲めない。ここに宿泊するか、クルマを宿泊地に停めて電車で行きたい。
詳しくは → こちらから

東北ドライブのHints&Tips
◆三陸自動車道
仙台から三陸方面を通って八戸まで三陸自動車道が開通している。しかも、2024年現在、無料区間が多い。なので、仙台から八戸に行くのであれば、三陸回りがコスト的にはお得である。また、見どころも多いので各地に立寄りながら走っても、1日で八戸までに到着する。
三陸だけが被災地ではないが、津波の爪痕が大きい三陸を応援するためにも往路か復路のどちらかは三陸を利用することがおすすめ。
◆走ってみたい道
津軽半島の竜泊ラインは、先に述べたが、他のおすすめロードを以下に列挙する。ご参考まで。
- 男鹿半島一周
- 磐梯山 磐梯吾妻レークライン、磐梯山ゴールドライン
- 岩木津軽スカイライン
- 最上街道~鶴岡街道(古川→鳴子→新庄→最上川→鶴岡)
ギャラリー
義経の足跡





この近くには、本州最北端の駅、三厩駅がある。



鳥海山





山形城








