3.日本一周ドライブガイド 関東編


関東のマップ

関東の絶景

東京湾 – 大都会の海原は魅惑

日本は島国であり、全国各地の海はそれぞれ特徴があり、美しさもそれぞれの良さがある。東京湾の魅力は、なんといっても、船舶数の多さ、空には航空機が頻繁に飛び交い、ビルや工場群に取り囲まれているところだろうかと僕は感じる。少し古いデータではあるが、令和元年の浦賀水道の通航船舶隻数は1日平均520隻で、明石海峡に次いで2位。が、大型船やタンカーに限ると浦賀水道が大きく上回る(明石海峡は漁船や旅客船が多い)。   参考データは → こちらから
大型船が通行する大都会の海の風景は迫力があるし、絵になる。そのうえ、天気がいいと富士山も見える。とても魅力的な風景です。

海ほたるPA

東京湾の真ん中に陣取る海ほたるPA。こんなパーキングは日本で、ここにしかない。
ここで食べられるグルメなど詳細は、こちらから

◆東京湾フェリー

千葉と神奈川を結ぶアクアラインがあるにもかかわらず、久里浜と金谷を結ぶ東京湾フェリーは健在。甲板で潮風にあたりながら景色を楽しむ。車でなければ、ぜひ、船内で販売しているアルコール類をもって甲板で飲みたい。最高!
詳細情報  → こちらから

神奈川県側の久里浜港近くには、ペリーが上陸した場所に資料館がある。

◆羽田空港近辺の公園

羽田空港近くには、飛行機の発着陸を身近に見ることが出来る公園が複数ある。近いと言っても、数キロ離れているので機体が大きく見えることはない。しかし、どこかの滑走路から頻繁に飛行機は離陸していく。山手線のダイヤよりも過密。

・京浜島つばさ公園

・城南島海浜公園

東京ゲートブリッジ

東京港の入口にあたる場所に大きな橋がある。恐竜が向かい合っているように見えるので、恐竜橋という人もいるそうだ。下の7枚目の画像でははっきりとは見えないが、この方向から見ると橋の下に富士山の姿を拝むことが出来る。若洲海浜公園からエレベータで橋の上に上ってみると、まさに大都会の絶景ともいうべきか。

八ツ場ダム -湖底に沈む温泉街

八ツ場と書いて、「やんば」と読む。なぜ、そのような読み方なのか? それは底に沈んだ土地の名前だからとしか言いようがない。難読地名は日本全国いたるところにある。
このダムの底には、川原湯温泉街や吾妻渓谷の半分くらい、この温泉を発見した源頼朝関連の史跡などがある。僕もダムができる前にこの地を何度か訪れている。そんなに小さい部落だけがあったわけではない。そこには先祖代々引き継いできた温泉街だけでなく、多くの地元民の暮らしがあって町の歴史もあった。鉄道もあり、駅もあり、国道145号も通っていた。それらが、丸ごと、ダム湖に沈んでいるのである。旅館や民家はすべて山の中腹に住み替えを強いられ、鉄道や道路を山に中腹に移転した。
政府も民間も、地元自治体も地域住民も賛成・反対に分かれ、激しく対立したが、1994年に工事は着手された。しかし、2009年、民主党政権時の事業仕分けで、八ツ場ダム建設中止命令が出された。だが、喧々諤々の議論の結果、中止するほうが逆にコストがかかるという事で、結局、工事は再開した。その後、建設費用はさらに膨れ上がり、総工費5000億以上となり、史上最も高額なダムとして完成し、2020年に運用を開始する。
言えることは、いったん始まったプロジェクトをやめることは物凄くむつかしいということだ。プロジェクト中止の決断、それはすごいことだと思う。ほとんどの場合、不可能に近い。それは、戦争も同じことが言える。
僕は特に反対派とも賛成派でもないが、行ったことのある場所が底にしずんだダムは八ツ場ダムだけなので、複雑な気持ちではある。

◆工事開始前の画像
 残っていない。


◆工事中の画像(2016年8月に撮影)
これらの画像は、今はダム湖の底で永遠に撮影することはできない。

◆完成後の八ツ場ダム

銚子市 – 海から生まれた千葉県

70万年ほど前、今の千葉県は海だった。11万年ほど前に、大地が隆起し、南の海に陸地が現れる。そしてプレートの動きに連動して北上し、関東平野にぶつかった。それが今の千葉県である。海から生まれた千葉県と呼ばれる所以だ。言い換えれば、千葉県は、関東平野の中で最も新入りなのだ。ただ、地殻変動が激しかっただけ、各地の地層はあらゆる地層がむき出しになっている。世界中で長く見つかっていなかった約77万年前~12万9千年前の地層が千葉で見つかり、この期間の名前を「チバニアン」とすることになって、千葉が大喜びしていたのは記憶に新しい。
そういえば、千葉ロッテマリーンズもなんとなく地殻変動が激しいような。。 いい意味で言っています。選手層が厚いのでという意味です。

それはさておき、銚子と言えば犬吠埼を連想される人が多いが、その近くに屛風ヶ浦がある。銚子市から旭市の刑部岬まで約10キロメートルにわたって40メートル~50メートルの断崖が続いている。地面が切り取られたかのような切り立った断崖。断崖好きの僕にはたまらない。英仏海峡のドーバーの「白い壁」に似ているという事で「東洋のドーバー」とも呼ばれているらしい。ドーバーに行ったことはないので、正しいかどうかはわからない。
ただ、犬吠埼も併せて絶景であることは間違いない。

◆犬吠埼

◆屛風ヶ浦

◆銚子大橋
利根川の河口。

秩父 – 銅が出たどー!都は大喜び

秩父は埼玉県で数少ない観光地である。寺社や温泉、自然に恵まれていて、首都圏からも近く人気のスポットである。はるか昔の708年のこと、この地で国家が大騒ぎになる大発見があった。
なんと、ヤマト朝廷が希求していた銅が発見されたのだ。唐に真似て、銅銭を造りたかったのだが、材料がなく弱っていたのだ。朝廷には歓喜があふれ、元号を「和銅」に改元する。

◆和銅遺跡

日本最古の流通貨幣と言われている「和同開珎」は、この自然銅をもとにして作られたとのこと。 この地には和銅献上に関係が深いと伝えられる聖神社があり、大小2個の和銅石・和同開珎銭・和銅製の雌雄一対の蜈蚣(ムカデ)がご神宝として収められているとか。ここの神社に参拝するとお金が貯まるかもしれません。

◆長瀞 岩畳

関東の酒蔵

サントリー府中工場

ビール工場は楽しい。首都圏には、複数のビール工場があり、同じように見学することが出来る。全国のビール工場をめぐるのも、また楽しからずや。

関東の歴史スポット

上野戦争 – 今も彰義隊の痕跡が残る

今は平和な上野公園。休日ともなるとファミリーやカップルで幸せいっぱいな雰囲気となる。
しかし、たったの約150年前、ここは戦場だった。戊辰戦争の一つ、江戸城無血開城の後に起こった上野戦争。新政府軍と旧幕臣らで構成される彰義隊の戦いである。
最大の激戦となった黒門口。今の京成上野駅の地上辺りに彰義隊の前線部隊が陣取り、御徒町の松坂屋辺りに薩摩藩中心の新政府軍が対峙していた。ちょうど、上野公園の交番近辺で激しい戦闘になったと思われる。
今の上野公園は当時寛永寺の敷地だった。その正面玄関である黒門において激しい銃撃戦があったとされる。その黒門、今は上野公園にはないのだが、実は荒川区円通寺に移設されていて見ることができる。実際に見てみると、銃弾の痕がいっぱい。激しい戦闘であったことが伝わってくる。
戦況は、今の東京大学あたりに設置された佐賀藩のアームストロング砲が威力を発揮し、それがきっかけで彰義隊は壊滅した。この作戦を指揮したのは長州藩の大村益次郎。結果は新政府軍の圧勝であったが、大村の頭脳と強力な薩摩兵がいなければ新政府軍も苦戦していたかもしれない。
ただ、当時の江戸市民は、彰義隊の味方だったらしい。悔しい思いをしたのだろうな。

・当時のままの黒門(円通寺)

・現在の寛永寺

下野薬師寺跡 – 道鏡の最後の地

日本3大悪人と言えば、弓削の道鏡、平将門、足利尊氏とされる。しかし、近年、彼らの評価は見直され、悪人と呼ぶ人は少なくなった。道鏡もまたしかりである。
彼の死後から現在に至るまで1000年以上の間ずっと、「称徳天皇の寵愛を受け、やりたい放題やった挙句、天皇にまでなろうとした極悪人」と言われ続けてきた。(道鏡をご存じない方は、「道鏡」や「宇佐八幡宮神託事件」のキーワードで検索してもらえると良い。ここではとても書けないが、江戸時代に彼を風刺した川柳は有名)。
しかし、最近、彼は悪人というのは間違いで、称徳天皇のブレインとして絶大な権力を手に入れ朝廷の改革をしようと奔走したが、それを望ましく思わない藤原氏のよって、無実?の罪で下野の国に流されたという説を唱える人が多くなった。(詳細はこちらから
真実はどうだったか? 
いずれにせよ、彼は人生の最後をこの地で迎える。絶頂期と比較するとあまりにも寂しい。
なんとなく、藤原氏にはめられ、その後1000年にわたって悪人呼ばわりされてしまう可哀そうな人だったというのが真実なような気がする。

渋谷城 – かつて城があった!

若者や外国人でごった返す渋谷駅周辺。ここにかつて渋谷城があった。渋谷駅のすぐ近く、渋谷警察の裏あたりに位置する金王八幡宮の境内一帯が渋谷城だったという。そこは当時の幹線道路である鎌倉街道沿いで交通の要所。渋谷川の東にある段丘の高台であり、水源が豊富だったため、城にはぴったりの土地であったと言える。
その痕跡は、わずかに砦の石が1個保存されているだけ。
しかし、そこから明治通りの方を見ると、確かに河岸段丘のような地形になっている。きっと渋谷川に沿って、堀が掘られ、土塁があったのだろう。そして、その向こう側は緑でいっぱいだっただろうと思う。
この地に立って、500年前、戦国時代の渋谷の様子を想像してみるのも悪くないかも。

小田原合戦 – 意思決定の遅れが命取り

大きな組織ほど意思決定が遅れたり、誤った方針を正しい方向に軌道修正していくことは難しいものなのだろうか。絶対的なリーダーがいない組織で重要なステークホルダーが多すぎると、「会議は踊る、されど進まず」という状態になり、意思決定を行うことが難しくなるのかもしれない。歴史を見ていると、こういう場合には、誰も自分が責任を取りたくないので、特にネガティブな意見(やばいですよ、何とかしないといけないですよ!とか)は言いにくくなり、威勢のいい方向(根拠なく自分たちは勝てる!とか)にずるずると流れていく傾向があるような気がする。
太平洋戦争の開戦を決定した戦前の日本政府・軍部を見てもそうだし、第二次長州征伐の幕府軍も、本能寺の変後の織田家もそんな感じ。現代でも企業の不祥事を見ていると同じように感じる。
戦国時代では、小田原に拠点を持つ北条氏がそうであったと言える。
豊臣氏と北条氏は対立していたが、一度は和議の方向に進もうとした。しかし、北条氏の家臣で沼田城代をつとめていた猪俣範直が真田領であった名胡桃城を攻めて奪ってしまうという事件が起こる。これを口実に秀吉は22万の軍勢で北条氏を攻める。それに対して、北条側は主戦派と恭順派に分かれて意思決定ができず、「この城が落ちるわけがない」という根拠のない自信が先行し、何のアクションもないまま籠城を続ける。いわゆる「小田原評定」である。結果、北条氏は滅亡することになる。

◆小田原城
小田原城は、全長9キロにも及ぶ土塁と空堀からなる「惣構」で囲まれている。それは、その後の江戸時代、徳川家康によって取り壊されたのだが、今でも少し残っている部分があるという。僕はまだ行っていないが、いつか訪れたいと思う。
この城、武田信玄も上杉謙信も落とせなかった難攻不落の名城。豊臣秀吉も無理な力攻めはせず、石垣山城などを築くなど心理戦に持ち込み、約3か月で北条氏を降伏させた。が、時はすでに遅し。北条氏は滅亡する。
そのあとに関東に入ったのが徳川家康。江戸を本拠としたことで、今の東京がある。
もし、この時、北条氏が早々に秀吉の傘下に入っていたら、北条氏の関東の所領は安堵されていただろう。とすると、徳川家康の所領は東海地方のままであっただろうか? そうした場合、のちに徳川が天下を取ったとして、どこに首都を置いたのだろうか? もしかしたら、静岡市が首都となっていたという事があったのかもしれない。
小田原城の詳細  →  こちらから

◆石垣山城
関東に初めて現れた近代城郭の石垣山一夜城。秀吉は、工事中の城を木々で小田原城から見えないようにしていたが、城が完成するとその木々を切って小田原城の兵士たちに巨大な城郭を見せつけた。城内の兵士は、驚愕し、畏怖し、戦意が消失したと言われる。
今は、建造物は残っていないが、石垣が残り、縄張(城の設計)がよくわかる。

◆山中城
三島から箱根方面に国道一号を登っていくと山中城がある。ここは、城愛好家ならだれでも知っている有名な城跡。北条氏の築城技術の集大成ともいうべき城で、それらが見事に残っている。
この城は本当に防御に優れている。ここは秀吉は力攻めをするのだが、膨大な犠牲者が出たと記録されている。僕が兵士なら恐ろしくて、とても近づきたくない。よくもまあ、当時の人は勇敢に攻めていくことができるものだと思う。しかし、多勢に無勢。結局、城は半日で落ちてしまう。
ここから富士山がとてもきれいに見える。戦死者も美しい富士山を見ながら亡くなったのだろうと思う。
城の初心者におすすめ。

天目山 – 武田勝頼最期の地

山梨県甲州市。武田氏が滅亡した「天目山の戦い」の場所。戦国最強の武田軍も信玄亡き後、長篠合戦の大敗から少しづつ力が衰え、ついにこの地で最期となる。武田四郎勝頼は決して凡将ではない。長篠以降の戦いぶりを見ると、よく頑張っている。有能な人だったのだろう。
しかし、彼は裏切りに次ぐ裏切りにあっていく。決断できないリーダーは論外だが、強すぎるリーダーも必ずしも人望を集めることが出来ないこともあるのかもしれない。
しかし、最後まで彼を裏切らなかった人物がいる。それは、勝頼の夫人。彼女は、北条氏康の娘で北条氏との甲相同盟強化のために輿入れしてきた。その後、同盟破棄の時に実家に帰るように勝頼からすすめられたが、彼女は首を縦に振らなかった。勝頼とともに生きていく道を選ぶ。
そして、武田家滅亡の時、勝頼は彼女に生きていてほしかったので是非実家に帰れといったが、彼女は彼と運命を共にする決意が固かった。武家の習いとはいえ、勝頼のことを好きでなかったらそんなことはしなかっただろう。
享年 勝頼37歳、夫人は19歳の若さであった。
  黒髪の 乱れたる世ぞ 果てしなき 思いに消える 露の玉の緒
彼女の辞世の句である。

◆景徳院
彼の死後、勝頼たちの最後の地に徳川家康によって寺が建立された。景徳院である。
彼女は、ここで勝頼と勝頼の息子の信勝(先妻の子。享年16)と一緒に3人で静かに眠っている。
この地に立つと涙が止まらない。

◆新府城跡
織田・徳川の大軍が甲府に迫る中、武田勝頼が一縷の望みをもって、巨大な城郭を築く。それが新府城だ。ここに籠城して大軍を迎え撃つつもりだったのだろう。
しかし、躑躅ヶ崎館からここ移ってからわずか68日後、小山田信茂らの進言に従い、この城を焼いて小山田の本拠である大月市にある岩殿山城を目指して移動する。が、その道中、次々と兵は脱走し、その上小山田信茂までもが裏切り勝頼たちに矢を向ける。とうとう勝頼たちは最後40名足らずとなり、織田軍の総攻撃により天目山で果ててしまう。
戦いの後、小山田は信長に人質を差し出し恭順しようとするが、信長は彼の裏切りを許さず、彼を処刑する。
もう、逃げ道はないのだから、新府城で最期の意地を見せてほしかった気もする。新府城は巨大な城郭だ。もしかしたら、織田軍も少しは手を焼いたかもしれない。

関東のご当地ぐるめ

月島もんじゃ

僕は関西出身。なので、こちらに来るまで、「もんじゃ焼き」なるものを食べたことはなかった。当初は、食べるつもりもなかったが、ある日、知人にもんじゃ食べに月島に行こうと言われ、初めて食べた。それ以来、もんじゃが好き。

水澤うどん

江戸周辺はそばの文化だが、埼玉県と群馬県はうどん店が多い。この辺りに小麦の生産が多いからだと聞いたことがあるが詳細は知らない。
埼玉県は「うどん共和国」と宣言しているらしい。
埼玉県も加須うどんや武蔵野うどんが有名だが、個人的には群馬県の「水澤うどん」が好きである。

ほうとう – ほんとに美味しい!

「ほうとう」とは小麦粉を練り、平らに切った「ほうとうめん」を、たっぷりの具材とともに味噌仕立ての汁で煮こんだもの。信玄の頃、戦場飯として作らせたことがきっかけで山梨で食べられるようになったと聞く。現在は、鶏肉や牡蠣などを入れる場合もあるが、もともとは野菜中心でかぼちゃは外せない。夏でも食べたい。

関東のドライブHints&Tips

首都高速

僕は、首都高を走るのが好きだ。カーブやジャンクションが多く、なにより車の量が多い。また、多くの車が100キロ前後で走行していて車間距離も短い。その中でスムーズに合流したり、分岐のため車線変更したりすると痛快な気分になる。
しかし、慣れていないと運転は大変かもしれない。
運転のコツは、個人的には以下のものを挙げたい。全部、当たり前ですが。。

  • 走行前に首都高マップで、出入口やジャンクションの車線を確認しておく。(短い区間で車線変更しないといけないので、案内板を見てからだと判断が遅くなるかも)
  • ジャンクションに近づいたら、早めに行先の車線に入る
  • たとえ、車線を間違えて、行きたい方向に行けなかったとしても、無理な車線変更は避ける。首都高は、いろんなところでつながっているので、回り道になっても、どこかで正しい道に戻れる可能性も高い。
  • 入口から本線に入るとき、たまに合流区間が短いランプもあるし、高速道路と違って追い越し車線に入るケースが多いので、スピードを出さず、隣に車が並んだらその次の間に合流する

首都高のサイトにこんなのあるよ。ご参考まで。

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