6.日本一周ドライブガイド 関西編


関西のマップ

関西の絶景

明石海峡 – 子供の頃に聞かされた夢の架け橋

僕は子供の頃、明石と神戸市舞子にかけて建設されたニュータウン:明舞団地というところに住んでいた。そこから自転車で海まで行って、須磨、舞子、朝霧、明石などに釣りに行っていた。その頃にここに淡路島と明石を結ぶ夢の架け橋が作られると言われていた。まさか、こんな風景になるとは全然思わなかった。
人間ってすごいことできるもんやなと思う。


◆本州側からの風景

◆淡路ジェノバラインからの風景
僕が高校生の頃、明石港と淡路島の岩屋港を結ぶ播淡汽船があり、その後、明淡高速船という企業に継承された。さらに大橋完成後、淡路ジェノバラインという企業に継承された。この船からの景色は最高。夜はもっといいかもしれない。岩屋港付近には海鮮料理を提供するお店や国生み神話に出てくる絵島など散策するところもある。また、無料シャトルバスで近くの観光スポットにも行ける。おすすめである。 ご参考=> こちらから
昨年だったか、何十年ぶりに乗船してみたが、かつてのような乗客はいなかった。橋ができても、船は住民にとっては大切な足なので継続して運航してほしいなと思う。

◆空からの風景

◆車の中から

竹田城 – 雲海もいいけど石垣も

竹田城は雲海で有名。しかし、雲海がみられるのは9月~11月、前日の日中が暖かく、その夜に寒くなるなど、条件がそろわないとみることはできない。でも、行ってみるのも良いかと。
まあ、僕は雲海よりこの石垣に感動する。が、実際の戦闘では羽柴秀長に3日で落とされるなど、戦国時代の初期ならともかく、秀吉の時代になるとあまり堅固な城とは言えなかったのかもしれない。

瀞峡 – 三県にまたがる渓谷美

十津川村 – 日本一の吊り橋

僕は橋が好き。特に吊り橋はたまらない。

神戸港 – 海からの景色は日本一

言わずと知れた神戸の港。僕の高校生の頃、初デートはここだった。贔屓目で見た個人的な感想だが、海から見る町の景色は日本一。

奈良の大仏 – やっぱりすごい!

このサイトで紹介するまでもないが、やはり奈良の大仏はすごい。聖徳太子もご覧になったであろう飛鳥大仏もぜひ。

◆飛鳥大仏
聖徳太子も見たと言われる日本最古の大仏

関西の酒蔵

灘五郷

灘の酒。なんだかんだ言ったって、僕にとっては、本当は灘の酒が最もうまいと思っている。

伏見

伏見の水は軟水。昔は、京料理に合わせてふくよかでまろやかの酒。
 詳細 => こちらから
何度か訪れているが、画像は残っていない。
が、日本酒好きの方は是非。

関西の歴史スポット

安土城これぞ信長の芸術

信長ファンでなくても歴史好きなら一度はどうぞ。
画像は2010年ころのもの。最近は、木々が整備され、きれいになっている。登城も有料になっている。

長浜市石田 – 石田三成が生まれた地

正義の男:石田三成。彼が生まれた場所に行ってみるのも良い。で有名な秀吉と三成が出会った寺、三献茶のエピソードで知られる観音寺なども三成ファンなら行っておきたい。

大坂の陣 – 今も残る史跡をめぐる

大坂の陣。真田丸や幸村最期の地:安居神社、天王寺動物園内にある茶臼山など、見どころが多い。何度か行っているのだが、画像が残っていない。
ご参考 => こちらから

こちらは小松山古戦場。後藤又兵衛と真田幸村などが同時に攻める作戦だったが、後藤の部隊が一足早く到着。濃霧のため、真田などの後続部隊が来ないので待ちきれずに、後藤は戦闘を開始する。最初は優勢だったが、徳川側の援軍が到着してから形成は逆転、又兵衛は戦死した。当初の作戦通りにできなかったことは何とも悔やまれる。豊臣方は徳川家康の首をとる一歩手前まで追い詰めたが、徐々に劣勢になり、大阪城は落城。その後、大坂の町は無法地帯になり、兵士だけでなく、市民も多く無残な被害者となった。まさに地獄だったことが屏風絵などから今日に伝わる。
なお、当時は大坂。大阪に代わるのは明治5年。大坂の坂の字が縁起悪いとされたため。坂は、土に返ると書くので死を連想された。
◆小松山古戦場

◆誉田時戦場

明智光秀の足跡

明智光秀の居城と言えば、坂本城をまず思い浮かぶ。そのほかにも細川藤孝の居城だが、山崎の合戦に敗走してきた勝竜寺城もゆかりの城と言える。丹波攻略後は、福知山を拠点として善政を行ったので今でも福知山市民には明智光秀が人気があると聞く。

◆坂本城

◆勝竜寺城

◆福知山城

◆丹波亀山城(亀岡市)
ここから光秀は本能寺に向かう。どんな気持ちでこの地をたったか?
もう二度と戻れないとおもったのであろうか?

今は、ある宗教団体の土地なので、許可された場所のみを見学できる。受付があるので、見学の前に寄ってみよう。見どころなどもご説明いただける。

◆篠村八幡宮
亀山城を出立した後、光秀はここで必勝祈願を行う。ここで、重臣に本能寺を襲うと打ち明けたのではないか、という人もいる。
ここは、足利高氏が幕府に見切りをつけ、六波羅探題を攻める前に立寄ったので、縁起がいいと考えたのかもしれない。

関西のご当地ぐるめ

くいだおれの街:大阪を中心に、関西には美味しいものがあふれている。しかし、そのほとんどが全国区になっていて、ご当地ぐるめと呼べるものは少なくなっているような。その中で2つの料理を紹介する。

明石 玉子焼

関東などでは明石焼きと呼ばれるが、たこ焼きの元祖である。元々、明石の工芸品で卵の白身を使うものがあって黄身が余る。そこで、玉子焼きの中に明石タコを入れた食したのが始まりという説がある。
江戸時代には食べられていたとか。
大阪では、戦後、今のタコ焼きの具にスジ肉やこんにゃくを入れたラジオ焼きという食べ物があった。大阪の商人が「明石の方ではタコを入れてるみたいやで」ということになり、ソースをつけて食べるたこ焼が生まれ、そっちのほうが全国区になった。
明石焼と呼ばれる玉子焼きは、もちろん出汁で食べる。もうたまらない。僕は、明石の魚の棚と呼ばれる商店街の中にある「たこ磯」さんによく行く。

飛鳥鍋

奈良に行くと、飛鳥鍋を提供してくれるお店がある。
飛鳥鍋は、鶏肉、野菜を牛乳とだし汁で煮込んだ奈良県の郷土料理。
飛鳥時代に唐から乳製品が伝わり、最初は宮中で飲まれていたが、そのうちに僧侶が飼っていた鶏の肉を牛乳で煮たものが「飛鳥鍋」の起源といわれている。昭和初期に、明日香の名物料理として牛乳を使った現在の「飛鳥鍋」のかたちが考案されたと聞く。

関西ドライブのHints&Tips

家康の伊賀越えルート

数年前、家康の伊賀越えルートをドライブした。今は、開発が進み、安心安全なルートだが、当時はかなり危険だったと思われる。家康最大のピンチを凌いだルートを巡るのも面白い。ただ、ルートは諸説あるので、調べてから行くほうが良い。

◆飯盛山城で変を聞く
天正10年6月2日、家康は堺見物のあと京に戻る途中、四条畷市の飯森山城にいる時に本能寺の変の情報が入ったと言われる。ここから家康最大の危機、神君伊賀越えが始まる。
飯盛山城は三好長慶の本拠地で巨大な山城。麓には楠木正行を祀る四条畷神社がある。伊賀越えとは関係ないが、ここも歴史好きなら行ってみたい。

◆宇治田原町 山口城
諸説あるが、通説では、初日、ここで宿泊したといわれる。一番、行程の中で最も京に近く、明智軍に囲まれる危険性が最も高かった場所。明智軍も必死に家康の行方を捜したはず。しかし、見つからなかった。

この辺りは宇治茶の産地。お茶畑で人気のスポット和束町も隣にある。

◆信楽町 小川城
宇治田原を出発した一行は途中偏照院で休憩をとり、ここ小川城で2泊目となった。翌日はここからいよいよ伊賀国に入ることになる。実際のところはよくわからないが、当時の伊賀は土豪の集まりで、天正伊賀の乱で信長を憎んでおり、その盟友の家康は命を狙われていたとか。服部半蔵がここで活躍したのが最も有名な通説。

◆伊賀市柘植町 徳永寺
一行は、小川城から上野市柘植町の徳永寺に向かう。
この寺は家康をかくまったおかげで加増され、屋根に葵の御紋を入れることが許されたとされる。柘植までのルートは御斎峠から上野城辺りを通っていったとされるのが通説だが、あまりにも危険なので上野は通らず、桜峠から柘植町に入ったとする説を支持する人も多いみたい。
なお、柘植は松尾芭蕉の出生地。芭蕉に関する史跡もある。

時代は違うが、伊賀上野城。ここは29.5メートルの高石垣が有名。石垣の高さは丸亀城の60メートルが有名だが、そこは3段に分かれている。一段としての石垣で最も高いのは32メートルの大阪城が一位で、伊賀上野城は2位。石垣の上から下を見ると足がすくむ。

・徳永寺

◆白子の浜
おそらく5日の未明にこの地から岡崎方面の大浜まで船で渡った。ここで船に乗ったとき、奇跡的な脱出劇が成功し、安堵しただろうと思う。この一行、メンバーは名だたる徳川の重鎮ばかり。ここで果てていたらその後の歴史はどうなっていたかわからない

信長の金ケ崎退き口ルート

信長が総力を挙げて越前朝倉を攻め、金ケ崎城(敦賀市)を落として一乗谷に向かおうと木の芽街道に入ったとき、衝撃の情報が信長の陣にもたらされる。同盟関係だった義弟の浅井長政が裏切って、背後から攻めてくるというものだった。そこで、信長は占領していた領地をすべて捨てすぐに京への撤退を開始する。世にいう「金ケ崎の退き口」である。これは大河ドラマなどでも何度も扱われているので詳しい説明はしない。
そのルートは、金ケ崎→国吉城→朽木→京のルートと言われている。信長最大のピンチを凌いだルートを辿ってみるのもおすすめ。僕は2018年に辿ってみた。

金ヶ崎城
古来、重要な交通の要所。ここを信長はたやすく手に入れた。

◆木の芽街道
金ケ崎城を攻略し、進軍中だった木の芽街道

◆国吉城
信長は、金ケ崎から西へ若狭国の国吉城にまず入る。
国吉城はかなり大きな山城。麓に陣屋跡がある。信長はここで宿泊したのだろう。しかし、写真を撮ったが、なぜか残っていない。
ご参考 → こちらから

◆熊川宿
敦賀に攻める時、徳川家康はここの得法寺に一泊したと言われる。熊法寺という事で徳川だって喜んだらしい。この寺には家康の腰掛松がある。
国吉城から朽木を越える道は鯖街道と呼ばれ、熊川宿などに鯖を食べさせてくれるお店がある。

◆朽木陣屋跡
ここを無事に通過できるかが、最大の難関だった。信長にとって、朽木が敵か味方かはっきりしなかったが、松永久秀の説得により朽木は信長を守ることにした。
近くに信長の隠れ岩があるとのことだったが、私は場所がわからず、クルマを止めるスペースもなかったので断念した。
信長はこの地を無事に通過すると京に戻ることが出来た。

ギャラリー

◆丹後半島

◆神戸市内

◆大阪 天保山

日本で一番低いと言われていた山がある。江戸時代、大阪湾の航路だった安治川を拡張するために工事を行い、土砂をここに積んだ。当時は20メートルくらいあったという。その後、地下水の汲みすぎが原因で地盤沈下し、1970に7メートル、1993年に4.5メートルになった。
当然、日本一低い山だったが、2011年の東日本大震災により仙台市の日和山が3メートルの標高になったので、今は天保山は日本で2番目に低い山であるとか。二番じゃだめなんでしょうか?
天保山には山岳会と山岳救助隊があるとのことだ。今のところ、山岳救助隊が出動した事例はないという。いかにも大阪らしいと感じるのは僕だけだろうか?

◆和歌山城

紀州徳川家の本拠地。御三家では最も西に位置する。和歌山市には、雑賀孫一で有名な雑賀城跡もひっそりとある。

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