7.日本一周ドライブガイド 中国編


中国地方のマップ

中国地方の絶景

山陰の海岸 – 国道9号沿線の海岸美

国道9号は、京都市から福知山市、朝来市経由で鳥取県岩美町まで山間の道で、そこから島根県益田市まで海沿いの道、最後は山間の道となり津和野、山口市を通って下関市までつながっている。実延長614.6キロとなり日本で4番目に長い国道である。
その国道沿い、益田市から岩美町まで、そのあとは国道178号で走ると海岸線の絶景の連続。以下、西から絶景を紹介する。

◆浜田市 石見畳ヶ浦

浜田市を東に走ってすぐ。駐車場から続く洞窟を出ると、確かに海岸線が畳のように見える。

◆太田市琴ヶ浜

太田市仁摩にある鳴き砂。琴ヶ浜という名の浜は石川県輪島市にもあって、同じく鳴き砂の浜。また、京都府丹後市には琴引浜というのがあって、そこも鳴き砂の浜。共通して名前に”琴”がつくのは、その地方の古の人が鳴き砂の音を琴の音に似ていると感じたからだろうか? 
正直言って、全然異なる音に感じる。では。なぜだろう?

◆道の駅 キララ多伎
この道の駅から東へは国道9号ではなく、大社方向に延びる「くにびき海岸道路」が絶景である。運転していたので画像はない。
ご参考 => こちらから

◆白兎海岸

神話の海岸。ひどい目にあう白兎。神話の時代から苛めはあった。

◆鳥取砂丘

鳥取砂丘は、ただの砂丘ではない。砂の白さと海の青さのコントラストがとてもきれい。それにとても広い。ただ、サハラ砂漠のようなイメージを持っている人もいらっしゃるが、それほど広大でもない。でも、ラクダはいる。

◆浦富海岸

岩美町からは、国道9号は山間部を走るので、国道178号がおすすめ。海岸線の絶景美を堪能できる。

秋吉台

有名な観光地なので、特に説明はしない。何回か来たが、何度来ても素晴らしいと思う。

角島

角島は、下関市豊北町の日本海にうかぶ周囲17キロほどの小さな島。島の形が牛の角に似ているから角島と呼ばれるとか。
ここでは、やはり角島大橋が素晴らしい。長さは1.7キロ。海の上はゆっくり走って景色を楽しみたい。

島根半島 – 国引き神話は嘘ではない?

◆国引き神話とは?
国引き神話をご存じだろうか? おそらく、島根県の人は誰でも知っているが、他の神話に比べて知名度は低い。それはそのはずで、この神話は出雲風土記に記載されているが、古事記や日本書紀には記載がない。
神話の内容を簡単に言うと、もともとは出雲の国は国土が狭いので、出雲の神様が拡張するために朝鮮半島から使っていない土地に鍬を入れて切離して、鍬につけた縄をぐいぐいと引っ張ってきた。その綱をかけたのが三瓶山という事になっている。それが杵築の地と言って、今の日御碕や出雲大社のある土地である。かたや、同様に能登半島の珠洲市辺りから土地を引っ張ってきて、今の美保が関がある辺りの土地になったという神話である。
詳細は、こちらから

◆地質学的見地
その国引き神話だが、地質学的に見て必ずしも荒唐無稽の話でもないという。島根半島、もともとは本州からは海で切り離された島だった。日本列島が大陸から切り離されるときに一緒についてきたらしい。
それが三瓶山の火山活動などでその間に陸地ができて今の形になっているとか。
昔の人の観察力と想像力には恐れ入る。
詳細は、こちらから

◆杵築の地

出雲大社のある辺りは、杵築の地。神話では、朝鮮半島の一部をここに引っ張ってきたことになっている。

◆美保が関
美保が関から弓ヶ浜にかけては、能登半島の珠洲市あたりから引っ張ってきたという事になっている。

◆弓ヶ浜

中国地方の酒蔵

旭酒造 – 世界の獺祭はここで生まれる

旭酒造は、本当に山の中にある。岩国から車を走らせるとすぐに山の中に入る。が、突然、派手な飲食店が現れてびっくりする。それは、岩国市民には有名で、テレビでも何度も取り上げられている「いろり山賊 玖珂店」。僕は入ったことがないのでコメントできないが、よろしければどうぞ。ご参考==> こちらから
そこから、さらに山道を先に進めると、これも突然、大きな酒蔵の建物が見えてくる。世界の獺祭で有名な旭酒造だ。
小さな酒蔵というが、今は決して小さくはない。巨大で、かつ偉大。

東広島市西条 – 酒蔵が集う町

東広島市の西条駅は、すぐ目のまえに酒蔵が多く並ぶ街となっている。日本酒好きなら踊りだしたくなるような街だ。日本で一番駅から近い酒蔵の街といえるかも。酒蔵めぐり、最高です。おすすめ!

◆賀茂鶴酒造直営 仏蘭西屋
首都圏でも有名な賀茂鶴の直営店がその酒蔵の中にある。なぜか「仏蘭西屋」という。美酒鍋という名物料理がある。やはり、酒蔵で飲む酒は本当に旨い。

李白酒造

松江の銘酒「李白」。松江の静かな住宅街にある。

中国地方の歴史スポット

厳島合戦 – 毛利元就の大博打

1555年、世界遺産:厳島神社で有名な宮島を舞台に日本三大奇襲の一つ「厳島の戦い」があった。
元々、山口市を中心に絶大な力があった大内氏をその腹心の陶晴賢が自害に追い込み主導権を握った。その陶を見事な作戦で倒して一躍戦国大名に駆け上がったのが、後に中国10か国を制覇する毛利元就。
陶軍は約2万人、かたや元就軍が3000とも4000とも。圧倒的な兵力差があったので、少数でも勝つために、元就は戦場を厳島にさだめ、あらゆる手段で陶軍を厳島神社辺りに兵を集めるように情報戦を展開する。
そして、1555年10月1日。厳島神社辺りに陣取る陶軍を正面攻撃だけするのではなく、島の反対側に軍を上陸させ、博奕尾という峠を越えて、山からと海からの両方から奇襲し、陶軍を壊滅させる。
元就の見事な頭脳戦だと言える。 ご参考 ==> こちらから

◆ 毛利軍の進軍ルート
毛利軍は9月30日の夜、暴風雨の中、今の廿日市市辺りを出発し、厳島神社からは島の反対側になる包ヶ浦に上陸する。すると、暴風雨はやんだという。そこから狭い山道を登り、博奕尾という峠で陶軍が対陣していることを確認し、宮尾城まで駆け下り、一気に陶軍に突撃。海上からは小早川軍が上陸し、挟み撃ち。陶軍は大混乱となり壊滅する。
元就の作戦がすべてはまった。今でいうところの計画通りにプロジェクトが遂行されたという事になる。元就は類稀に見る素晴らしいプロジェクトマネジャーであると言える。

◆厳島神社

壇ノ浦の戦い

関門海峡は見どころが多い。幕末の下関戦争の舞台であり、宮本武蔵と佐々木小次郎の巌流島、日清戦争の下関講和会議など。その中で最も有名なのが、壇ノ浦の戦いであろう。
まさにこの海域で死闘が行われた。最初は平家が優勢だったが、突然、源氏側が有利になっていく。なぜだろう?
それは潮の流れが午前と午後で変わったと長く言われてきたが、最近の研究ではそれは間違いということらしい。
この時、源義経は船の漕ぎ手に矢を放つように命令したと言われる。それは当時の戦のルールに反している。もし、それが真実なら、漕ぎ手を失った平家は戦闘不能状態に陥ったはずで、源氏がその理由で勝利したとすればあまりにも卑怯だと言わざるを得ない。
義経を戦の天才とほめたたえる歴史家は多い。しかし、本当にそうなのだろうか?
おきて破りで無茶な戦法がたまたまうまくいっただけで、言わばラッキーボーイに過ぎなかったのではないだろうか?
もし、彼が戦の天才だと当時の人に認められていたのなら、義経が頼朝追討の院宣をもらった時にも、頼朝から追討されるときにも、なぜ誰も彼のもとに集まって来なかったのだろう?
いずれにせよ、知将:平知盛の奮戦むなしく、この地で平家は滅び、安徳天皇は入水する。
この年、冷夏のため、西日本は大飢饉であった。その責任は為政者である平家に向けられた。それがなければ平家もここまで弱くなっていなかったかもしれない。
ただ、こういう時に飢饉が発生してしまう、それが歴史の流れというものだろうと思う。鎌倉幕府の滅亡時も応仁の乱発生時も同じく飢饉だったと聞く。

◆赤間神宮
安徳天皇を祀る。耳なし芳一の堂などもある。

幕末の長州 – 高杉晋作の奇跡

功山寺挙兵から大田絵堂の戦いで勝利するまでについては、日本一周時に週次報告に記載したので、そこらを参照してほしい。

 功山寺挙兵についてはこちらから
 大田絵堂の戦いについてはこちらから

◆功山寺挙兵

◆大田絵堂の戦い

◆四境戦争 小倉口の戦い
小倉口は高杉晋作率いる奇兵隊などや1000名が担当した。坂本竜馬も乙丑丸で参戦している。幕府側は、小倉藩藩主で老中小笠原長行が総督を務め、小倉藩、久留米藩、熊本藩など約2万。高杉は、自領を守るのではなく、小倉藩領に攻め込んでいく方針をとった。幕府軍はまさかこっちに攻めてくるとは思わず、各地で苦戦することになる

①田ノ浦の戦い
まず、長州軍は和布刈神社辺りから上陸し、小倉は反対方向の田ノ浦を攻撃し、不意を突かれた小倉藩兵は退却。緒戦は長州の大勝利だったが、長州軍も制海権を幕府海軍に握られているので、戦火を収めていったん下関に戻る。

②第2回の戦闘が行われた大里(現在の門司)
長州軍は、2回目の攻撃をこの辺りから上陸して行った。小倉藩も奮戦したが、他の藩が様子見を決め込み、孤軍奮闘。最終的には撤退する。
今は、レトロな門司の町並み。

③小倉城
3回目の戦闘では、小倉藩は熊本藩共同して長州軍を撃破し、後退させる。小倉口では初めての幕府側勝利。
しかしその時、大阪城にいた将軍の徳川家茂が病死の報が入る。
すると熊本藩は撤退、そうすると、な、なんと幕府軍の総督の小笠原長行は小倉城を離れ、幕府軍艦に逃亡する。
その後、指揮官がいなくなった小倉城は炎上。城兵は撤退し、落城した。「小倉の一番長い日」ともいわれる。

四境戦争 石州口の戦い
石州口は、天才軍事家の大村益次郎(この時は村田蔵六)が約1000名の兵を率いた。対する幕府軍は、浜田藩・津和野藩をはじめ、紀州藩や福山藩など約3万。大村益次郎は、散兵戦術という近代的な戦法で幕府の大軍を翻弄し、各拠点で勝利し、浜田城も落としてしまう。浜田城は、巨大な城郭。長州軍は、30倍以上の兵力を持つ幕府軍を相手に物凄い勢いで進軍し、石見銀山まで占領する。
小倉藩の場合もそうだが、自分の領土に攻め込まれた藩は自領を蹂躙され、悔しくてたまらなかっただろう。

◆四境戦争 大島口の戦い
四境戦争の初戦は、大島口の戦い。ここには長州軍の兵はおらず、島民の兵500人が守っていたが、ここに幕府は最新鋭の軍艦「富士山丸」を擁し、幕府陸軍と松山藩の兵が攻め込み、瞬く間に大島を占領した。
幕府軍は、「長州なんて、ちょろいもの」と思ったかもしれない。
しかし、そこから長州軍の反撃は始まる。
幕府軍艦「富士山丸」は、その夜、蒸気をおとし大島沖に停泊していた。そこに高杉晋作率いる長州海軍が急襲。驚いた幕府海軍、この時はさほどの損害ではなかったが、心理的な影響は大きかったと言われる。さらにここで活躍するのが大島出身の世良修蔵。奇兵隊を率いて、地の利を活かして幕府歩兵と松山藩兵を大島から追い出すことに成功する。
実は大村益次郎は当初、大島を捨てるつもりでいた。少ない戦力を分散させたくなかったから。
想定通り、幕府側がすぐに大島を占領してしまう。が、その時、幕府陸軍歩兵も松山藩兵も民家に押し入り略奪行為や残虐行為を行う。悲惨な状況を島民が長州の大本営に訴えたため、長州藩首脳は憤り、島民を見捨てるわけにいかないので兵を出した。しかも、それで勝ってしまった。長州藩兵の中には、幕府に勝てるわけがないと思っていた人も「幕府軍は意外に弱い。勝てるかも」と思ったかもしれない。
もし、この時幕府側が適切な占領政策を行っていたら、大島は幕府の拠点になったはず。そうなると、戦況も変わったかもしれない。
この時のヒーロー世良修蔵。後の戊辰戦争で奥州総督使として東北に行ったとき、彼の強硬な姿勢を仙台藩士などの怒りを買い、暗殺される。そういうこともあって、世良は傍若無人で強硬的なイメージがある。ただ、あくまで新政府軍の方針に忠実に職務を行っただけという見方もある。まじめで一直線だが、不器用な人だったのかもしれない。

④四境戦争 芸州口
芸州口だけは、長州軍が苦戦するが、将軍 徳川家茂の死急死をきっかけに、各地で敗れていた幕府軍は撤退する。下の画像は、錦帯橋と岩国城。

中国地方のご当地ぐるめ

宮島 あなごめし

宮島といえば、穴子丼。宮島口の「あなごめし うえの」が有名。常に長蛇の列。

米子 イカ天そば

米子では、天ざるはエビではなく、イカの天ぷらで提供される。めちゃ旨い。

浜田 赤てん

浜田市を中心に食されている「赤てん」。最近は首都圏の居酒屋でも提供しているお店もあるが、ピリ辛で酒のつまみにピッタリ。
島根に行ったら食べてみたい。(残念ながら画像はない)
詳しくは ==> こちらから

鳥取 とうふちくわ

ちくわと言えば、魚のすり身が主材料だが、鳥取では魚が貴重とされた時代に大豆を食べようと鳥取の殿様が指示した。そこで、豆腐7 魚3のちくわを作るようになったとか。これが実に旨い。
詳しくは、==> こちらこら

中国地方ドライブHints&Tips

国道178号

何度も繰り返すようだが、国道178号は特におすすめである。
178号は、京都府舞鶴市から鳥取県岩美町まで現道距離172.8キロの一般国道。途中、宮津市、丹後半島を周回し、久里浜町、豊岡市、香住町などを通る。特徴は、日本海の海岸線を沿うように走る。これだけ海岸線を通る国道は他にないのではないかと思うほどである。
豊岡から香住町までは山の中を通るので、ここだけは竹野海岸を通る県道:但馬海岸道路を走ることが望ましいと思われる(私は、まだ走ったことがない)

◆あまるべ
兵庫県になるが、途中、あまるべは忘れずに立寄りたい。香住カニバーガーもおすすめ。

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