2025年3月に真田幸村をメインテーマとして関西に行った。そこで大学時代の友人たちの酒を酌み交わし、友人Sのクルマで九度山方面にドライブしたのでレポートを残す。
目次
行程表
今回のメインテーマは、「関西における真田幸村探訪」とした。実は、ほとんどの場所に行ったことがあったが、かなり久しく訪れていないので、写真なども残っておらず、行ってみたいと思った。
なお、根来寺から先は大学時代の友人3人と一緒にいった。その一人の友人Sが愛車エスティマを出してくれて、すべて彼に運転をお願いした。行程は僕の趣味によるものなのに全く申し訳なかった。
が、おかげでめちゃ楽しいドライブとなった。
以下に実際の行程を表にまとめたものを示す。

天王山 旗立松展望台 – 山崎合戦の鳥瞰
伊丹空港からモノレールと阪急電車を乗り継いで「大山崎」で下車した。そのあたりは、明智光秀と羽柴秀吉が覇権を争って戦った山崎合戦の地。激戦の地は、今の山崎ジャンクション辺りという。
天下分け目の天王山とよく言われるが、実際は淀川の沼地と天王山で狭まれて細くなった場所で激戦があった。その場所では大軍の隊列も細くならざるを得ず、兵数で劣る光秀はその出口に蓋をするような布陣を引いて迎え撃つ形にした。しかし、その狭い場所で両軍が激突したので一進一退、そのうち淀川を北上した池田恒興らの兵が渡河して明智陣地を側面から攻撃することで戦況は一変、明智軍は総崩れとなった。
その布陣の様子が、天王山中腹にある旗立松展望台からよくわかる。
旗立松は、天王山を制した秀吉軍が味方の指揮を高めるために旗を立てた場所と伝わるが、同時代の史料には記載がなく、後世のつくり話だともいわれる。
阪急電車の大山崎駅から徒歩30分ほど。天王山登山口からは結構きつい傾斜の山道が続く。足元はスニーカーでもよいが、落ち葉などで滑らないように登山靴くらいの方が望ましい。





島本町 – 櫻井の別れの地
楠木正成・正行親子の「櫻井の別れ」で有名な櫻井驛の跡地がJR島本駅の駅前にある。この近くには、「後鳥羽上皇水無瀬宮址」もある。後鳥羽上皇は、この地で和歌や狩猟を楽しんでいたらしい。すぐそばにあった水無瀬川を題材にして数多くの和歌を残しているとか。上皇は京都周辺に多くの離宮を持っていたが、水無瀬離宮はもっともお気に入りだったと聞く。






真田丸跡 – 真田幸村激戦の曲輪
大坂冬の陣で活躍した真田丸。大阪城の南側、今の明星高校辺りにあった。むろん当時の名残はほとんどないが、JR玉造駅からその場所は台地になっている。
その台地の崖(へり)にあたる場所にある三光神社には真田の抜け道というのがある。大坂城からの逃げ道になっていると伝わっており、落城時、幸村たちは豊臣秀頼をここから連れて抜け出し、薩摩に向かったという伝承がある。
真田丸跡は、JR玉造駅から西に10分くらい歩いた場所にある。かつての地形を考察しながら歩いていきたい。





茶臼山 – 幸村と家康の陣
天王寺公園の中にある茶臼山。小さな丘だが、自然の地形でなく、茶臼山古墳と呼ばれる大阪市内最大規模の前方後円墳。大坂冬の陣では徳川家康の本陣、夏の陣では真田幸村が本陣を引いた場所である。
今はビルに囲まれ見通しはないが、江戸時代の頃は大坂城まで見渡せただろう。本陣にするには最適な場所である。






安居神社 – 幸村最期の地
大坂城が落城する日。真田幸村と毛利勝元は軍神のように暴れまわった。徳川家康本陣を蹂躙し、家康軍は壊滅。家康は「もはやこれまで」と二度も覚悟したほど。しかし、家康の首一歩手前まで行きながら、逃げ惑う家康を見つけることはできない。
やがて、近くにいた東軍の各部隊が徳川家康本陣に駆けつけてきて反撃に転じた。
真田・毛利両軍は抗しきれず撤退。幸村は茶臼山のすぐ北にある安居神社で力尽き果て首をとられる。享年49。





住吉大社 – 摂津国一の宮
摂津国の一宮。神功皇后の新羅征伐の帰り、自分の息子である皇子(応神天皇)の異母兄が反乱を起こした。弱った皇后に現れたのが、三つの神。彼らが言うのは住吉に住処を作れば応援するというの。そこで、作られたのが住吉大社。三神が味方になったことで神功皇后は勝利し、無事に応神天皇は即位する。
ここの住吉大社はその三神と神功皇后が祀られ、ほか神戸の生田神社、長田神社、西宮の広田神社に三つの神がそれぞれ同時に祀られた。
実は、その住吉神社、当時は神戸市東灘区住吉にある元住吉神社の場所にあって、その後、今の位置に移転したとも聞く。
住吉神社は全国にある。筑紫国および長門国の一宮も住吉神社。それぞれ祭神は少しづつ違う。が、どこも三神は祀られている。
摂津の住吉大社は、三神と神功皇后の4つの宮がある。神功皇后が4番目の宮。社務所の人に聞いてみると、どこからお参りしても良いらしい。が、神事のときは一宮から順次廻っていくという。







根来寺 – 鉄砲集団の寺
信心深い方に怒られそうだが、根来寺と言えば戦国好きの人なら雑賀衆と並ぶ鉄砲のプロ集団「根来衆」を思い浮かべる。杉谷善住坊なる僧も根来衆だという説が有名である。彼は、信長を狙撃し失敗し、生きたまま首から下を土中に埋められ、竹製のノコギリで時間をかけて首を切断する鋸挽きの刑に処される。司馬遼太郎の小説や大河ドラマでは根来衆だとされていることが多い。
その真偽は別にして、そういう話になるくらい、根来寺は鉄砲のプロが多かったことは間違いないだろう。
秀吉に攻められるまで寺領は70万石を越えていた、と寺の受付の方からご説明いただいた。紀州藩が60万石だから大大名以上の石高だった。
豊臣秀吉により焼き討ちにあい、当時から残っている建造物は、大塔・大師堂、および大伝法堂の3つだけとのこと。しかし、3つも残っていること自体がすごい。






真田庵・真田ミュージアム
紀州九度山。女人高野とも呼ばれる。女人禁制だった高野山にいた空海が月に九度、ここにいる母親に会いに来たという事からその地名の由来があるとの伝承がある。
それより何より有名なのは、真田昌幸・幸村親子が蟄居した地であること。彼らは関ケ原で西軍につき、敗戦後、本来斬首か切腹するところ、東軍についた真田信之の懇願によりこの地に追放となった。
徳川にいつか雪辱を思いながら昌幸はこの地で逝去するが、関ケ原から15年後に大坂の陣が起こり、幸村はここから大坂に出陣する。
村人に咎がないよう、祭りの日、村人に大酒の飲ませ、酔って寝てしまったところを抜け出す。もちろん、村人はそれを知っていた。「幸村さま、思い切り暴れてくださいませ」。小説や大河ドラマでよく描かれる場面である。
ここ真田庵に彼は10年以上もいたのである。この地に立つと、彼が吸った酸素分子が、僕の肺の中に入ってきているような気もしてくる。
決して勝てるとは思っていなかっただろう。しかし、最後に武将としての本懐を遂げたいと思ったのだろうか? 自分の培ったスキルを試してみたいと思ったのだろうか?






丹生都比売神社 – 紀伊国一の宮
にうつひめ神社と読む。紀州一宮の一つ。九度山から移動する場合、山道を通って峠を越した先で物凄く山の中にある。
太鼓橋(雪の為か通行禁止だった)の奥に入母屋造りの楼門があり、そこで参拝する。その裏に4神の本殿がある。歴史を感じる素晴らしい社殿だった。





和歌山電鐵貴志駅 -ねこ駅長で人気
ねこ駅長で一躍有名になった和歌山電鐵貴志川線の貴志駅。今も人気で多くの観光客が訪れていた。駅には車を止めるスペースはないが、近くに数台の有料駐車場があった。





伊太祁曽神社 – 木の国の神様
紀伊一宮は4つあるが、その中の一つ。紀伊の国名の由来ともなった。祭神は素戔嗚尊の息子。スサノオから木の種をもらい、紀伊の国に来てその種をまいたという。木の神様を祀る神社。



復路新幹線の中 – ビールと駅弁
新幹線に乗るとビールとともに駅弁を食べたくなる。新大阪駅での短い時間で、駅弁を選択。新大阪始発のひかり号自由席に乗り込んだ。
この駅弁、大阪のB級ぐるめが満載。
紅生姜の天ぷら。めちゃ美味しい。最高。


所感
- 僕も大胆な運転をする方と思っていたが、友人Sの運転は僕以上。最初は、気を使っていたのか、スピードも出さず、とても安全運転だったが、途中から本領発揮していた。はっきり言って、彼の運転は僕よりうまい。とにかく200キロもの距離を運転してくれた。
ありがとう。 - 3人の友人は、日本一周の時も灘五郷に付き合ってくれた。
今回も付き合ってくれて、とても楽しかった。
実は4人の苗字の頭1文字をつなげると「なかよし」になる。
大学を卒業してから40年以上なるが、今でもこうやって付き合ってくれる友人に感謝したい。
これからも健康で、そして時々会ってくれると有難いなと思う。



